ビルド・アンド・スクラップ
仕事が落ち着いて本を読む余裕が出てくると、むくむくと「書きたい欲」が顔を出す。この「書きたい欲」は定期的にやってきて、最終的にブログを作らせるくらいまで成長することがある。今これを書いているとき、まさに欲MAXである。おっ、今回も来たねとお茶を出したくなる。たまに会う私の友人のようだ。 でも、だいたいこの辺りで友人は去っていく。結局ブログを作らないか、数記事だけ載せてしれっと削除する。「公開→放置→削除」のループは私の中ではもはや季語のようなもので、書いては消すのを繰り返している。
実のところ、今書いている内容と似たような話を何度も書いている。「ブログを書くにあたって(n回目)」。そしてきっと来年あたりに同じことを書いている気がする。少し『火星のタイムスリップ』を思い出す。書きながら「これ見たことあるな」と思うんだろう。
遠くに引っ越して、友人知人にほとんど会わなくなった。加えて私は自分から「特に用もないのに連絡をする」といった高度なスキルを持ち合わせていない。つまり取るに足らない話をする相手が近くにいない。寂しいです、と言っているようでとても恥ずかしい。
だから私のブログは私を知っている人に向けて書いているつもりだ。でも、「書いたから読んでね!」と送る勇気もなく、もし偶然見つけて、気が向いて読んでくれたらラッキー、くらいの感覚でいる。もし読んでくれたら、会った時に話してくれると嬉しい(そして照れる)。
久しぶりに友人に会うと、大抵「最近どうしてる?」という、儀式的な質問から始まる。そして似たようなことを話して別れる。次会う時には話したことをあまり覚えていない。なのでまた1から始まる。それはそれで「いつもの感じ」と安心するし、そのおかげで笑うこともある。でもどこか物足りなさは残る。
その流れはなんとなく、ブログを書いては放置し、消すという自分の癖に似ている気がする。似たような記事を書き出し、期間があいて、消して、初めに戻る。少しだけ見せて、続けず、広げず、深いところまで踏み込ずに終わる。細部にたどり着けない、積み重ねができない、それが引っかかっている。
もしかすると、私は友人たちと会う中で、彼らの「考え」や「感じたこと」にあまり触れられておらず、時折感じる寂しさはそこからきているのかもしれない。 まずは自分から、書いて、置いておくようにしよう。始めは「書きたい欲」という友人へ向けて。「書きたい欲」にしたがって書く(そしておそらく消す…)。ただし、大抵はどうでもいいようなことが書かれる予定だ。
届いてほしいという思いはあるが、それ以上に、これは会話の”続き”を準備するための行為だ。できれば、スクラップにせずに”新しい部屋ができたんだ”とか”上の部屋はね…”とか”地下へどうぞ”みたいに友人を引き込み、返さないつもりでいる。あ、もしかして、自意識過剰な独白の気配を察知して、書きたい欲は帰るのか…?